映像(動画素材)が作品(映画)になるとき
AMNブログイベント「ブログと動画」に参加して
動画は専門でもあるので、tipsみたいなのは置いといて
以前から気になってたことと絡めて書いてみる。
映像を多少なりとも勉強してきたので、僕の場合
撮影する時には、終わりと始まりの画を考えて撮るので、
きっかけがないと、撮影自体出来なかったりします。
もちろん、xactiやハンディカムが登場した影響が強いとは思いますが、
気軽に 撮影出来る人が増えていることにまず驚く。
で、どうやら
ブログのなかに動画がある(一緒になって初めて成立する)ことで
映像を作品と捉えずに撮っているのではないかということに気づく。
最近のDVD特典とかに入っていたりするメイキングの、
「見られる前提無しに、ただ撮ってた撮影現場の映像」
(タレントが撮っているものとか)
に、すごく近い。
そこに、ブログがあることで
「見せる前提が付いた」ということのように感じる。
このときの状態をイメージすると、
「撮る側」と「撮られる側」 が同時に存在している感じ。
もしくは、
「カメラの両側にレンズが付いている」
ようなものなのではないだろうか?
話が飛びすぎているので、考えるきっかけのもう一方の話。
以前、 「チーズとうじ虫」という映画を観た時に、
流れているものは、映画のための映像素材では無いように感じるのだけれど
(作者自身も「たいくつしのぎに、あるいは遊び道具として」カメラを回し始めたと言っている)
観終わったときには、「これは紛れもない映画だ!」 と思わされたことがあった。
「撮り続ける」という行為が、積み重なってある時、作品になったものの
奇跡のような作品だったのです。
「ブログと動画」の話に 戻ってみる。
実は、撮った素材を(多少なり加工して)アップ(共有)するという行為を
続けることが、「もしかすると映画になり得るもの」を溜めていること
なんじゃないかと思う。
撮った中身よりも、撮る行為が大事になってくる。
とも言い換え可能。
きっかけとなったのが、機材なのかインフラなのか、両方なのかは
わかりませんが、
対象を撮る行為が、自分を撮る行為と感じるまでに、
掛かる時間が圧倒的に短縮される日が、もうすぐそこにあることは感じられました。
先日、「belief」 というセルフドキュメンタリーの作品を
観終えたときにも似たような感覚になり、
(beliefは対話のためにカメラが存在している)
「belief」上映後のトークショーに
「チーズとうじ虫」の加藤監督も来ていたので、
両監督に「映画にしようと思って撮っていたのか?」
というような質問をしたところ、
両監督とも
「撮影しながら伝えたいテーマが出てきた時に映画になった」
というような内容を答えてくれました。
「映画(作品)を作ろう!」からスタートしていない作品が映画になった
ということから、
「ただ撮る」という行為が持つ可能性が広がったというのは
言い過ぎなのでしょうけど、
「撮ること」と「見せること」の距離が縮まった先に
何か新しい変化があることは、確かなのだろうと感じることが出来たのが
イベントの収穫でした。
正式スタートした tokyo driftも、そんな視点で見てみようかと思っています。
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